小学校に入学するときに、共働きの場合には、どうしても選択肢として必要な学童クラブ。
学校は1日中授業をしていませんので、1年生から放課後をどう過ごさせるかは悩ましい問題だと思います。
私自身も学童クラブにかつて入っていました。
これは私自身の経験上のお話です。
当時は専業主婦の家庭が多く、共働きは少数という時代。
私は入学前は保育園児でした。小学校入学後は、幼稚園出身者の多い時代です。
学童クラブに通う子は保育園児よりもさらに少数派という状況でした。
お子さんによって学童が必要かどうか、学童クラブが合うか合わないかは異なりますので、こういうパターンで学童をやめたという参考にしていただければ幸いです。
私自身の家族状況ですが一人っ子、祖父母の援助はありません。
子供のころの記憶に基づき書いていますので、記憶がはっきりしていないところもあります。
そのため、詳細な状況が正確ではない可能性があることも考慮をお願いします。
1年生は私だけ
当時は共働きよりも専業主婦家庭の多い時代です。
当時の全校生徒の人数は1000人ほどでした。
学童クラブに行っている子供は、本当に数が少なく、クラブ室は校内の倉庫のような部屋を改造した部屋でした。
おおよそ10人くらいだったかと思います。
人数は定かではなくて、おおよそです。
私が覚えているのは、1年生は私のみ。
3年生が2人。2年生が2人いたことは覚えています。
また、そのうち3年生と2年生は年子の兄弟でした。
このカウントですと、私込みで5人です。他の5人は?になるのですが、当時覚えていた子だけを洗い出すとこのようになります。
そのため、他にもいたかもしれないという人数で10人としていますが、本当は5人だけだったかもしれません。
学童の職員さんは2人だったと記憶しています。
つまらない学童
限られた人数で、それほど広くない部屋の中で過ごしていました。
覚えているおもちゃは、ブロックくらいでしょうか。
ダイヤブロックとレゴのようなボコボコのあるブロック。
最近でこそ、レゴが市場を占めていますが、当時はレゴではなくて日本製のブロックだったかと思います。
部屋遊びで遊ぶおもちゃで覚えているのはそれだけです。
私はブロックが結構苦手で、あの形で何を作ったらいいのか全く想像ができず、誰かの作ったブロックを見ては、なんであんなに作れるのか不思議でした。
ダイヤブロックも、ただ箱を作るだけだったり。
校庭でも遊ぶことはできます。
ただし、放課後放し飼いにされていたニワトリが校庭を自由に闊歩していたため、近づいてきたニワトリに足をつつかれるのが、非常に痛くてイヤでした。
ブロック遊びも楽しめず、校庭ではニワトリの攻撃に耐えながら遊ぶので、学童が楽しいという思いはありませんでした。
むしろつまらなくて、イヤになるほど。
おやつの時間はありました。
覚えている限り、この1回だけなのですが、手作りのおやつを職員さんが作って出してくれました。
おそらく毎日おやつはあったと思うのですが、食べたかったおやつということで、そこだけを記憶しています。
その時だけは、やたらおやつを心待ちにしていました。
いじめられる恐怖
当時いた2年生の男の子が、クラブ室の外で遊んでいるときに来ては、私の首を絞めてきました。
なぜなのかはわかりません。
それがいじめというものというと、はっきりはわかりません。
誰かと結託したとか、そういうものでもなかったと思います。
単にクラブ室の外(廊下のような空間)にいて遊んでいたときに、一時期集中してされたのを覚えています。
自分より年上の、しかも自分より背の大きい子にいきなり首を絞められるのがどれほど恐怖だったか。
今なら誰かに言えばいいと考えることができますが、当時はどうしていいのかもわからず、ただただ怖いと思うだけでした。
その子がなぜ首を絞めてくるのか、理由はわかりません。
ただ、いきなり突然にです。
なので、クラブ室の外(校内)で遊ぶのも、すごく気にしながら遊んでいたような気がします。
学区の外れという帰宅時の恐怖
学童そのものもつまらない、急に首を絞められる恐怖がある、で学童クラブそのものが好きではなかった私に、さらに追い打ちをかけてきたのが、冬です。
学童クラブが終わるのは17時。そこから帰宅になるのですが、2学期が過ぎると、日の暮れるのがどんどん早くなります。
そして、その日の暮れるのが、同じ17時に出ても、徐々に暗さを増していくんですね。
夕暮れ時に学校を出ても、歩いていると心細くなります。
学童クラブにいる子と帰らないのかということになるのですが、通学路が違うため、私一人で夕暮れの中、帰っていました。
しかも、家は学区の外れ。
徒歩15分ほどです。
大通りがあるとか、人通りがあるかというとありません。普通の住宅街の中をひたすら家まで歩いていきます。
一人で暗い中をどきどきしながら帰っていました。怖いという気持ちで。
毎日そんな思いで学童に行っていて、これからもまだ続くのかと思うとどうにも無理でした。
2学期で学童を辞める
学童で首を絞められた話を母親にしたかは覚えていません。
ただ、暗い夜道を一人で帰るのだけは耐えられず、3学期もこれは続きます。
また、学童でイヤな思いをするのも、つまらないのも、続くのはイヤでした。
そこで、母に泣きながら学童を辞めたいとお願いしました。
2学期までで学童を辞めたいと。
多分母は行かせたかったとは思います。
私は、夜道を一人で歩くことが非常に怖く、すでに毎日怖い思いをしながら帰るのがイヤだというのを泣いて訴えていました。
母から見ても、無理だと思ったのでしょうか。
当時は子供用携帯もない時代。
居場所がはっきりしないと、親も不安になります。
そして私は鍵っ子になった
まだ1年生なのに、一人で家に置いているのが心配だとか鍵の管理があるとか、いろいろあったと思います。
ですが、鍵をきちんと管理すること、宿題は先に済ませること。それがきちんとできるかという約束で辞めさせてもらいました。
一人で暗い夜道を怖い思いをしながら帰るなら、約束は簡単なことでした。
それからつまらない学童にいることも、首を絞められなくていいことも、一人で家にいるほうがどれだけ救われたことか。
そして、私は1年生の3学期から鍵っ子になりました。
大事なのは自分でやる意識と自己管理
私はあまり覚えていませんが、学童を辞める時に、母と必ず約束だからねと念押しされたことだけは覚えています。
多分内容としては鍵の管理、ガスに触らないこと、宿題をすること等。
学童に行きたくない一心だったためというのが起点ですが、約束を守れなければ学童に戻されますので、絶対戻るもんかという気だったと思います。
私の経験ですので、実際に自分の子供がどうかというのは、また異なるかと思います。
むしろ学童で安心して過ごせるなら、そのほうが親も安心です。
当時の学童クラブは保育というより託児
今の学童クラブは、放課後のカリキュラムが組まれていて、それに沿って生活をしています。
それに比べて、当時の私の場合は、放課後にクラブ室に行って遊び、おやつを食べて帰ったくらいの感じです。
宿題をやる時間とか学習時間は、組まれていなかったような。
またあくまでも想像の域になりますが、職員さんは保育士とかではなかったと思います。
(当時の保育士も保母資格なので、制度上どこまでカバーしていたかはわかりません)
我が家の場合
幸いにも今は学童クラブに入る子が増えているので、友達がいないというのはありません。
また、基本的に大人の目が行き届くようにも配慮されているようなので、大きな問題も発生していないと感じています。
帰宅も人数が多いメリットもあって、一人で帰ることもなく、シルバーパトロールの方が一定の場所までは必ずついてくれるので、そういう点でも不安が少ないです。
むしろ最近は学童の定員がオーバーしていて、過密なのではというほうが気になります。
学童クラブでの生活もある程度決まっていて、それに沿って生活をするスタイルがあるため、ただの託児ではない安心感もあります。
まとめ
自分のときの学童クラブを振り返ると、今の子供たちは恵まれているなと感じます。
子供たちが安心して過ごせる場所があれば、保護者も助かります。
当時の私は学童クラブに行きたい理由が一つもありませんでしたので辞めたわけですが、もしも自分の子供が本気で行きたくないと訴えてきたら、きちんと話を聞いて考えたいと思っています。
幸いにも、今のところそういうことは全くないのですが。
まだ子供だから大人の庇護のもとでないと不安という人もいるかもしれませんが、子供なりにきちんと考え、解決しようとする力はあると思います。
なんでもかんでも心配だからではなくて、一緒に考えて、どうしたらいいのかを伝えたうえで、子供に任せてしまうのも一つの手だと思います。
防犯ブザーも当時ありませんでしたね。
最近は、どこの学校でも当たり前のようにつけているようです。
家で間違って紐を抜かれると、非常に耳が痛いですが。
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